北海道三都市公演 シゲさんレポート

2015年9月・12月

北海道公演(小平町、洞爺湖、当麻町)

まず、2015年の9月〜12月に公演した活動報告が、こんなに時間がかかってからの報告になり申し訳ありません。9月上旬に北海道の小平(おびら)町、洞爺湖町での公演があり、12月には当麻町公演がありました。その間11月には新潟胎内(たいない)市での公演もありましたが、その胎内市公演の活動報告の前に、北海道での3公演を報告したいと思います。

この3ヶ所での公演は、町の文化事業の一環であったり、教育委員会や芸術鑑賞会の主催公演でした。これまでの公演の大半が実行委員会が立ち上がって、公演までの間、制作スタッフが何度もやり取りをして、ようやく公演が実現するという形だったので、そういう意味では少し違った公演だったのですが、そこには、これまでと同じように中心になって動いてくださった人がいました。

 

これまで全国各地で公演させてもらった際、紀伊國屋ホールでの公演など、何度か富良野演劇工場の太田工場長(通称・工場長)と九澤さん(通称・キューさん)に舞台監督や、舞台、照明の仕込みなど強力助っ人としてお手伝いしてもらった事があったが、北海道での3公演は、舞台監督、音響、照明、制作の全スタッフを富良野演劇工場全面バックアップでやっていただいた。

音響の淳さん、照明の広瀬さんには、この作品は見て頂いてるが、オペレーターは初めてなので、最初の小平町公演の前に稽古をさせてもらった。普段の稽古は、東京の区民センターや集会所を借りて、3人だけの稽古なのだが、今回は富良野演劇工場でセットや照明も仕込んで、本番と同じというか、それ以上の贅沢な空間で稽古をさせてもらった。

その結果、これまでは、オッサン2人とポッチャリ1人のキャストだったのが、オッサン6人とポッチャリ1人という、キャスト&スタッフ7人全員が男という悲しい結果になった。

 

この悲しいビジュアルは、華のない全く売れそうにない劇団にしか見えない。

期間限定劇団『日没』と名付けられた。

小平町と洞爺湖町での公演は、2014年9月に富良野での公演を見てくれた、小平町の教育委員会の長澤さんと、札幌での公演を見てくれた洞爺湖町で、様々な肩書きを持ってる北島さんという、全くタイプの違った2人が『この舞台を我が町でやりたい』と手を上げて企画をして下さった。

違ったタイプの2人に共通するのは、ものすごく熱いという事。長澤さんは静かに熱く、北島さんは賑やかに、いや、うるさいぐらい、いやいや、やかましいほど・・・北島さんの表現が難しいが、とにかく2人とも熱く応援して下さった。


写真ではハイテンションの長澤さん


熱く話してくれる北島さん

小平町での公演を支えてくれた長澤さん自身、福島県出身ということもあり、何度も被災地に足を運び、現地でのボランティア活動だけでなく、小平町から届ける様々な被災地支援活動の企画や実施を精力的に行っていた。ただ、それ以上に、東北出身であるが『あの時』は東北にいなかった自分に何が出来るのかと、大きく悩み苦しまれていたそうだ。

そんな時に、この舞台を富良野演劇工場で見て、小平町の小学校、中学校の生徒たちに見せたいという想いを工場長に話して、1年かけて実現させて下さった。

その公演は『小平町文化交流センターサポーターズクラブ演劇鑑賞事業』として、町民還元無料公演という形で実施してくださった。

長澤さんの「東日本大震災では、函館で1人亡くなっています。釧路など太平洋側では津波の被害もありました。小平の沖もあの日、津波注意報が出ていました。私たちも被災地にいたということをもっと深刻にとらえた方がいいと思うのです。」と言う言葉が強く響いた。自分がいた東京も大きく揺れたし、あの瞬間は、その場所が被災したと感じた事を思い出した。それから4年半という時間が流れた事で、自分の中にあった東京での記憶は、たしかに薄れている。

 

小平町での公演の2日後が洞爺湖町での公演だった。

洞爺湖町の公演を企画して下さった北島さんとの初めての打ち合わせは、鮮明に覚えている。たぶん僕は、オシャベリな方だと思うが、北島さんは、僕の10倍オシャベリだった。

2時間ほどの打ち合わせの1時間50分は、北島さんが喋っていた気がする。そして豪快に笑う。ずっと笑顔の人なのだ。熱い男にオシャベリと笑顔がプラスされる・・・いわゆる『お祭り男』だ。

いまだに北島さんの職業を詳しくは知らないのだが、ちゃんと働いてるようには思えないぐらいフットワークが軽く、アチコチにいる。「北島さん、アチコチにいてますね!」と言うと、「福島くんに言われたくないよ!!」と豪快に笑いながら言われ、確かにそうだと思ったりもする。

そんな北島さんは、2014年に札幌で公演した【イシノマキにいた時間】を見終えたすぐ後に「この作品を洞爺湖町でやりましょう。」と言ってもらった。きっとその時に北島さんの中では決まっていたんだと思う。だから初めての打ち合わせの時には、1時間50分雑談に近い話だった。あとは、いつやるかという問題だけだったような気がする。

洞爺湖町では写真展もやらせてもらった。ここでも男3人が加わり、10人全員が男、そして、劇場や食事でホテルのバイキングに案内してもらう時には北島さんが先頭にいる。

もぉ、完全に森の熊さんが、他の動物を従えて歩いてる絵にしか見えない。

公演の次の日に、メンバー3人と写真家の鈴木省一くん、平井慶祐くんを連れて有珠山の噴火口へ連れて行ってもらった。(上野祥法くんは、所用のため写真展の準備をして名古屋に戻った。)

北島さんは、15年前に噴火があり、その時の被害の大きさを丁寧に説明してくださった。自分の会社の資材や重機などを置いていた場所が「あそこ」と、土石流で埋まった場所を指差して豪快に笑っていた。北島さんが笑いながら説明してくれたのは、何事も前向きに捉える性格と、何よりも『その時』噴火による犠牲者がゼロだったからだと思う。

有珠山の噴火は、火山噴火史上の奇跡と言われている

北島さんは「山が教えてくれた」という言い方をする。30年前にも、2週間前には噴火の兆候を現してくれたそうだ。15年前の噴火の時には、2日前に住民のみなさんを避難させる事が出来た。

だから、大規模な噴火であったが、奇跡と言われるように噴火で亡くなった人はひとりもいなかったという。

もちろん町には大きな被害があり、洞爺湖温泉は観光が主体だったために、「町は一度死んだんだよ」と、北島さんの話すトーンが少し変わったのが印象的だった。

噴火から15年が経った洞爺湖町の人たちは、大半の人たちが、ここで生きていくと決めた人たちであると思う。もちろん、他に行くところがなかったからだという人たちも少なくないのだと思うが、震災から4年半の石巻の人たちで、いまだ仮設住宅で暮らし、5回目の正月を仮設住宅で迎えた人たちの中には、どれだけの人が「ここで生きていくんだ」と強く思うことが出来てるのだろうか。また、そう思わせるサポートが出来るのだろうかと考える。

12月は、当麻町公演。

旭川のとなり町で、この公演も富良野演劇工場のスタッフのみなさん全面バックアップでやっていただいた。太田工場長は、その強烈なインパクトのあるビジュアルと、そのビジュアルとは真逆の物腰の柔らかさで、全道で演劇のワークショップや講演依頼があるのだが、そんな時にチョイチョイ「イシノマキにいた時間というステキな舞台があります。是非、機会があったら見てください。」と広報活動をしてくれていて、それが小平町や当麻町での公演に繋がった。

当麻町の劇場は、富良野から1時間ちょっと雪道を走った場所にある。とても綺麗な劇場だと思ったら、2014年4月に出来たばっかりで、劇場の中に入ると更にアタタカイ気持ちになれる劇場だった。というのも当麻町は、林業が盛んで、劇場の建物で使ってる材木の90%は当麻町産なのだ。劇場スタッフの方のIDカードも木材で出来てたりして、とてもオシャレでほんのりアタタカイ。劇場名が、文化センターとか市民ホールという名前ではなく『まとまーる』というのも、また、親しみやすいネーミングだと思う。

富良野の演劇工場もそうだが、当麻町の『まとまーる』に入った瞬間に、その町を感じたり、学べたりするというのは、お芝居とは別の部分でも楽しめるなぁと。なのに、この劇場、出来てから1年半の間に上演したお芝居がなく、この【イシノマキにいた時間】が初めてのお芝居だと聞いて・・・もったいない!!と全員が声を揃えた。客席数が300人ちょっとと聞いて・・・ちょうどいい!!と全員が声を揃えた。

当麻町は、石巻の小学校にピアノや本を送った事がキッカケで交流が始まり、2015年の夏休みには、石巻の湊小学校の児童10人が当麻町のこども達と、この『まとまーる』で文化交流をしたり、ずっと避難所になっていた湊小学校の先生が、その時の話を伝えたり、一緒にバーベキューなどして『つながーる』な3日間を過ごしたそうだ。

そんな交流の縁と工場長の声掛けがあって、この【イシノマキにいた時間】の舞台を当麻町でやることになり、夏休みに交流した小学生たちも見に来てくれた。

当たり前だが、震災からドンドン時間が経っていき、自分たちも含めて『あの頃』から離れた生活になっていき、記憶は薄れていく。記憶とはそういうものであり、これからもっと薄れていき、曖昧になっていくのだと思う。この舞台は、ある意味ドキュメンタリーではあるが、お芝居として伝えている。『あの時』を伝える者と受け取る者がいる。4年半という時間で記憶が薄れたり曖昧になっていく事もあるが、ある瞬間に一気に蘇ってくる事もある。そのキッカケになる舞台でありたいとも思う。

当麻町公演でもそうだが、小平町でも、たくさんの小学生たちが見に来てくれた。ただ、小学生の低学年の児童たちのように『あの時』の記憶自体がほとんどない人たちに、どう伝えていくべきなのか、どう感じてもらえるのかを考える機会になった北海道公演だった。

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